昭和55年、18歳の時、「極真会館福島県支部和気道場」に入門し、当時はまだ師範代だった安斎師範に道着を頂き、初めて極真空手の道着に袖を通しました。嬉しくて、嬉しくて、その夜は、道着を着たまま寝たのを覚えています。もちろん白帯を締めて。寝苦しかったけれども、それでも根性で朝まで道着は脱ぎませんでした。と、言っても、単に空手着を着たのが嬉しかった訳ではありません。その時私は、既にフルコン他派の黒帯で空手着は着慣れていました。しかし、例え白帯でも極真の道着は憧れであり、そして何より、地上最強の極真空手の門下生になったと言う誇りが私の体中に漲りました。カラテマガジンやパワー空手の雑誌から、大山館長の写真を切り取り、額に入れて朝も夜もそれを見て、自分が大山館長の弟子である事に喜びを感じていました。
しかし、道場での稽古はとても辛く、特に自由組手は逃げ出したいくらい嫌でした。経験者の私は先輩方に可愛がられ?4人、5人と組手をさせられ、時には10人を数えることもありました。また、緑帯の時だったか、型が下手くそで審査を落とされ、へこんだ事もありました。それでも、何度も挫折しそうになりながら、継続出来たのは安斎師範を始め、先輩や仲間のお陰だと感謝しています。そして昭和58年に須賀川道場の準指導員として新たな一歩を踏み出してからも、紆余曲折があり、安斎道場から離れた時期もありました。それでも、色々な極真道場の指導者の方々に恵まれ、遠方への出稽古や合宿参加等をしながら貪欲に極真空手を学び続け、どちらかと言えば飽きっぽい私でしたが、空手だけは継続していました。しかし、平成元年に独立し会社設立した頃から月に2~3度しか稽古に出れなくなり、平成3年、会社設立から2年後、私の生活から空手はスッポリと抜けてしまいました。仕事に追われ、忙しい毎日でしたが、それなりに充実した日々。そんなある日、大山総裁が逝去。そして極真会館の分裂。外野から第三者的に見ていた私も胸を痛めました。平成8年、私は安斎道場に復帰しました。仲間と汗を流し、様々な活動をする喜び。そして私自身も二段、参段と昇段して行く中で、空手に対する情熱や、大山総裁の弟子であるという誇りが再び体中に漲りました。特に平成11年、千葉県での参段の昇段審査の連続組手は、脱水症状となり苦しかった分だけ達成感がありました。でも、この調子では次の昇段は厳しいかなと考えており、逆に言えば、まだまだ先の事と、特に心配もしていなかったのですが、過去3回の師範合宿に参加したご褒美か、はたまた先日の全日本階級別空手道選手権大会準優勝のご褒美か、光栄にも四段を允可されました。正直、40人組手も行わなかった事から納得いく昇段とは言えず、嬉しい気持ちは全く無く、責任の重さのみを痛感するばかりですが、安斎師範初め、多くの方々の期待に応えられるよう、そして、大山総裁の弟子として恥ずかしくない、豊かな人間性を育むべく、今後共益々精進していく所存であります。
押忍